ドラマ「あんぱん」のモデル・やなせたかしの家族構成は?アンパンマン誕生秘話も

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現在放送中のNHK朝ドラ「あんぱん」の主人公モデルとなっている、「やなせたかし」さんはどんな方だったのでしょうか。

国民的キャラクター「アンパンマン」を生み出した、やなせたかしさん。

やなせたかしさんの生い立ちや経験が、のちのアンパンマン誕生に繋がっているそうです。

ドラマのストーリーとリンクしているのでしょうか?

  • ドラマ「あんぱん」のモデル・やなせたかしの家族構成は?
  • ドラマ「あんぱん」のモデル・やなせたかしのアンパンマン誕生秘話は?

それでは、やなせたかしさんの家族構成やアンパンマン誕生について、詳しく見ていきましょう。

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目次

ドラマ「あんぱん」のモデル・やなせたかしの家族構成は?

やなせたかしのプロフィールと家族構成

ドラマ「あんぱん」のモデル・やなせたかしさんのプロフィールをまとめてみました。

項目内容
本名柳瀬 嵩(やなせ たかし)
生年月日1919年(大正8年)2月6日
没年月日2013年(平成25年)10月13日(94歳)
出身地東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)
主な作品『アンパンマン』、『手のひらを太陽に』(作詞)など
家族父:柳瀬清、母:柳瀬登喜子、弟:柳瀬千尋、妻:小松暢

次に、やなせたかしさんの家系図をご紹介します。

やなせたかしさんにとって、父親の逝去と弟の戦死は、その後のやなせたかしさんの創作活動に大きな影響を与えました。

やなせたかしの両親は?

就職した東京田辺製薬宣伝部入社の頃のやなせたかしさん

父・柳瀬清について

やなせたかしさんの父親・柳瀬清(きよし)さんは、高知県香美郡在所村(現在の香美市香北町)の裕福な庄屋の家の出身でした。

上海の東亜同文書院を卒業後、日本郵船に勤め、その後講談社の雑誌「雄辯」の編集者となりました。

そして東京朝日新聞社に入社し記者となったそうです。

やなせたかしさんの父親は、雑誌の編集者だったんですね。
やっぱり親子で書籍に関わる仕事してるって何か縁を感じますね。

父親の清さんは、「上海帰りのモダンボーイ」と呼ばれるハンサムな男性だったそうです。

やなせたかしさんが生まれた翌年に、家族は上海に移り住みましたが、やがて父・清さんは朝日新聞の広東特派員として単身赴任することになりました。

しかしやなせたかしさんが5歳の時、父親は中国・厦門(アモイ)で急病のため31歳という若さで逝去してしまいました。

当時は「赤痢」と言われていたそうですが、実際は「マラリア」だった可能性もあるようです。

やなせたかしさん、5歳のときに父親と死別してたんですね.....

母・柳瀬登喜子について

一方、母親の柳瀬登喜子(ときこ)さんは、高知県在所村永野の谷内家の出身で、とても美しく華やかな性格の持ち主だったと言われています。

父親の死後、母親は東京の官僚と再婚することになり、やなせたかしさんと弟を置いて家を出ていきました。

やなせたかしさんは後年、「ある日、母はきれいなよそゆきの服を着て、嘘をついて出かけたまま帰ってこなかった」と回想しています。

この幼い頃の母との別れは、やなせたかしさんの心に深い傷を残したと言われています。

現代だとびっくりする状況ですが、当時はみんな生きていくのに必死だったのかな...って推測されますね。

やなせたかしの兄弟は?

やなせたかしさんには、弟さんがいました。

弟・柳瀬千尋について

やなせたかしさんの弟は、2歳年下で柳瀬千尋(ちひろ)さんといいます。

父親の死後、弟の千尋さんは父方の伯父・柳瀬寛さん(父の兄)の養子となりました。

伯父は高知県長岡郡後免町(現在の南国市)で医院を営む医師でした。

一方、やなせたかしさん自身は、母方の祖母・鐵(てつ)さんと母とともに高知市内の医師宅の離れに居候することになります。

しかし、母の再婚後は、やなせさんも伯父の家に引き取られることになりました。

お母さんは東京で官僚と再婚したそうですが、その後の経緯が調べてみましたが不明でした。

当時、弟の千尋さんは家族の一員として柳瀬家の「奥の部屋で伯父夫婦と川の字で眠る」のに対し、やなせたかしさん自身は「玄関横のつめたい書生部屋で眠る」という違いがあったそうです。

やなせさんは伯父の家では「居候のよう」な扱いを受けていたと後に振り返っています。

弟の千尋さんはその後、海軍中尉となり、やなせたかしさんが上陸を免れた上海で大陸の戦いを経験しました。

弟の千尋さんは1944年、特別任務でフィリピンに向かう途中、乗っていた船が米軍の攻撃を受け、バシー海峡で戦死しました。

弟、千尋さんの死はやなせたかしさんに大きな衝撃を与え、後の創作活動にも影響を与えたと言われています。

やなせたかしの妻は?

小松暢との出会いと結婚生活

やなせたかしさんの妻は小松暢(こまつ のぶ)さんです。

1918年生まれで、やなせたかしさんより1歳年上でした。

小松暢さんは、鈴木商店(後の合同酒精)の創業者・鈴木商店の関係者の家系出身と言われています。

やなせたかしさんと小松さんは1947年に結婚しました。

小松暢さんは結婚前は編集者として働いていたそうです。

小松暢さんは一度結婚しており、やなせたかしさんとは再婚でした。

小松暢さんの出生時の姓は「池田」で、「小松」は1度目の結婚以降やなせさんとの再婚までの間に名乗った姓だったそうです。

二人の結婚生活は1993年11月に小松暢さんが亡くなるまで46年間続きました。

やなせたかしさんは妻の死後、自身の喜寿(77歳)の祝いで「疑似結婚式」を催し、漫画家の里中満智子さん(当時48歳)が花嫁役を務めたというエピソードも残っています。

やなせたかしさんと小松暢さんの間に子どもはいなかったようです。

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やなせたかしのプロフィールは?

やなせたかしのプロフィール・活動歴は?

やなせたかしさんは1919年2月6日、東京で生まれました。

2歳の時に家族で上海に移住しますが、父親が厦門(アモイ)に転勤となったことをきっかけに、母親とともに東京に戻りました。

やなせたかしさんは、5歳の時に父親を亡くし、その後高知県で育ちました。

学歴としては、高知県立追手前高等学校から東京高等工芸学校工芸図案科(現在の千葉大学)に進学しています。

卒業後は高知新聞社に入社しますが、兵役のために退社。

戦後、1946年に復員してからは三越宣伝部でグラフィックデザイナーとして7年間勤務しました。

1953年に三越を退社し、フリーの漫画家・イラストレーターとして活動を始めます。

その後、舞台美術家、作詞家、放送作家など多方面で才能を発揮していきました。

やなせたかしさんの主な作品や受賞歴を時系列でまとめてみました。

  • 1961年:「手のひらを太陽に」作詞(いずみたく作曲)
  • 1967年:4コマ漫画「ボオ氏」で週刊朝日漫画賞受賞
  • 1968年:詩画集「詩とメルヘン」に出版
  • 1973年:絵本『アンパンマン』発行(初版)
  • 1975年:「やさしさに包まれたなら」作詞(荒井由実作曲)
  • 1988年:アニメ「それいけ!アンパンマン」放送開始
  • 1989年:日本童謡協会特別賞受賞
  • 1991年:紫綬褒章受章
  • 2008年:文化功労者に選出
  • 2013年:10月13日、94歳で死去

やなせたかしさんの創作活動は多岐にわたりますが、作詞家としても沢山の作品を残しています。

「手のひらを太陽に」や荒井由実さんの「やさしさに包まれたなら」など、今も歌い継がれる名曲の作詞を手がけています。

荒井由実さんの「やさしさに包まれたなら」の作詞者だったなんて、知りませんでした!
素敵な歌ですよね。

やなせたかしの名作「アンパンマン」誕生秘話は?

アンパンマンの誕生と変遷

アンパンマンは、1973年に絵本として誕生し、1988年にテレビアニメが放送開始されました。

しかし、この国民的キャラクターの誕生には、やなせさんの戦争体験や人生観が深く関わっています。

アンパンマンの原型は、1969年に雑誌『PHP』に連載された漫画の中で登場したとされて言われています。

当初の物語は、アンパンを配る奇妙な人間として描かれていましたが、徐々に現在の姿に進化していきました。

戦争体験とアンパンマン創作の関連性

アンパンマン誕生の背景にあるのは、やなせたかしさんの戦争体験です。

やなせたかしさんは1941年に召集され、中国・上海などで従軍しました。

日本や中国の兵士が次々と死んでいく戦場で、やなせたかしさんは極限状態を経験しました。

上海ではマラリアに感染し、40度以上の高熱が何日も続く中で、「戦争は大嫌いだ」という強い思いを抱いたそうです。

また、1944年には最愛の弟・千尋さんを戦争で失いました。

これらの体験が、後のアンパンマン創作のベースとなったのです。

「真の正義」を体現するヒーロー

やなせたかしさんはこう語っています。

「戦争中、腹をすかせたまま『正義』を振りかざしていた。空腹であっても、正義を強調するプロパガンダを描くことを余儀なくされた。それは本当の正義ではなかった」

この経験から、やなせたかしさんは「本当の正義とは何か」を考え続け、その答えとして生まれたのがアンパンマンでした。

「腹が減っては戦はできぬ」という言葉通り、飢えている人に自分の顔(パン)を分け与えるヒーロー、それがアンパンマンです。

アンパンマンに込められたメッセージ

さらに興味深いのは、アンパンマンの「顔が弱点になる」という設定です。

顔を分け与えることで弱くなってしまうという矛盾を抱えながらも、困っている人を見れば自分の顔を分け与えずにはいられない。

この「自己犠牲の精神」こそ、やなせさんが考える「真の正義」だったのです。

アンパンマンが「顔を分け与える」というモチーフには、「ひとつのパンをみんなで分け合う」という、戦争中や戦後の食糧難の時代に育った世代の共通体験も反映されています。

やなせたかしさんは「分け与えることで飢えはなくせる」という信念を、アンパンマンを通して表現したのです。

また、「アンパンマンのマーチ」の歌詞にも戦争体験や弟への思いが込められているという解釈もあります。

特に「何のために生まれて 何をして生きるのか」という問いかけには、戦争で多くの命が失われる中で生き残った自分自身への問いが込められているとも言われています。

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まとめ・ドラマ「あんぱん」のモデル・やなせたかしの家族構成は?アンパンマン誕生秘話も

【ドラマ「あんぱん」のモデル・やなせたかしの家族構成は?アンパンマン誕生秘話も】こちらについて調べてみました。

・やなせたかしさんは1919年に東京で生まれ、5歳で父親を亡くし、母親にも去られるという波乱の幼少期を過ごした

・家族構成は父・柳瀬清、母・柳瀬登喜子、弟・柳瀬千尋、妻・小松暢

・父の死後、弟は伯父の養子となり、やなせさん自身も伯父の家で育ったが、待遇には差があった

・最愛の弟・千尋さんは海軍中尉として従軍し、1944年に戦死

・妻の小松暢さんとは1947年に結婚し、小松さんが1993年に亡くなるまで46年間連れ添った

・アンパンマンは、やなせさんの戦争体験や「真の正義とは何か」という問いから生まれた作品

・「困っている人に自分の顔(パン)を分け与える」というアンパンマンの姿には、やなせさんの人生観が反映されている

やなせたかしさんの波乱に満ちた人生とそこから生まれたアンパンマンは、私たちに「分かち合いの精神」の大切さを教えてくれます。

NHK朝ドラの「あんぱん」のストーリーも注目したいと思います。

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